日々是考察

「考えること」を生業とするため、日々のあれやこれやを考えます。

私の好きな10冊

お題「好きな本を十冊紹介してください」

 

今日は、はてなブログのお題から私の好きなものを綴っていきます。

私は本を読むことが好きです。ジャンルは小説から専門書まで幅広く読みます。今回は今まで読んできた中で特に好きな10冊を取り挙げていきます。

 

ヴィクトール・Eフランクル『夜と霧』

私が人生で一番影響を受けた本。著者の第二次世界大戦中の強制収容所に収容されていた経験をもとに書かれたものですが、うつの時に読むととてもよく効きます。何度読み返しても新たな発見があります。

 

原田マハ『本日は、お日柄もよく』

言葉の力がこれほどまでに強く感じる小説は中々ないという程、衝撃を受け、読んでいて元気が出ました。

 

佐藤多佳子『明るい夜に出かけて』

ラジオ好きには堪らない一冊。濃厚な夜を感じさせます。夏に読み返すと、また良いのです。

 

向田邦子ベスト・エッセイ』

向田邦子の妹である向田和子が編者を務めたエッセイ集です。食に一家言ある方なので食のエッセイも面白いのですが、私が一番好きなエッセイは「手袋をさがす」。生き方に影響を受けました。

 

三島由紀夫憂国

三島の他の本と迷いましたが、人に三島作品をどれか薦めるとしたら、私はこの作品を薦めます。三島の良さも悪さもギュッと凝縮されています。

 

レイ・ブラッドベリ華氏451度』

焚書をテーマにした小説。現実になっているところが嫌なところですが、本が持つ力強さが表現されています。

 

ジェレミー・マーサ『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』

フランス・パリに実在している本屋さんで起こった実際のことをもとに書かれています。嘘のような本当の話にとてもドキドキします。

 

ミヒャエル・エンデ『モモ』

モモと灰色の男たちとの戦いが書かれている名作です。モモの聞き上手ぶりには、読む度に「私も見習おう」と思います。

 

梅棹忠夫『知的生産の技術』

私が日記をつけ始めたきっかけの本。読んでいると、すごくワクワクします。

 

谷川俊太郎『へいわとせんそう』

絵本から1冊。シンプルな作りですが、深く考えさせられます。

 

 

以上、10冊です。いかがでしたか?詳しく紹介し過ぎると、読む気を失くすこともあるので、本の紹介はシンプルにしました。少しでも皆様の読書の参考になれば幸いです。他の方の本の紹介も知りたいので、これからお題の中に潜りたいと思います。それでは、皆様楽しい週末を!

浸透しているからこそ見えないもの

日本人はよく無宗教とか、宗教観が薄いとよく言われる。しかし、それは間違いではないかと私は思う。

 

確かにごちゃまぜな宗教観なのには異論はないが、そこには「八百万の神」が根差しているからこそであるからこその受容的な宗教観である。他には「いただきます」にも諸説あるが深く日本独自の宗教観がある。

 

これらのことから日本人は決して無宗教や宗教観が薄い訳ではなく、無意識のうちに習慣として宗教観が浸透していると私は考える。しかし、人から日本人の宗教観を説明が求められる時、無意識のうちに習慣として得たものを上手く説明できないがゆえに、無宗教や宗教観が薄いとかに落ち着いてしまうのだ。

 

浸透しすぎるからこそ見えないが、日本人には既に日本独自の宗教観が備わっていると私は思う。ただ、無意識ゆえに宗教について問われると答えに窮するだけなのだ。そこから、日本の宗教観について調べてみると面白い。そのままだと勿体ない問いである。

シェアリングについて考える

シェアリングとは、物・サービス・場所等を色々な人と共有する社会的な仕組みのことを指す。その具体的なサービスを挙げると、ココナラ、メルカリ、Ubar Eats等がある。

 

このシェアリングを利用したサービスであるが、世の中が安定している状態で初めてできるものだと痛感する。なぜなら、世の中が不安定になると、人は自分だけのものにしたくなるからである。

 

共有するとは、対象となる個人間、もしくは世の中が安定しているからこそできることなのだ。

 

異論はあるだろうが、そんなシェアリングの究極形態はグローバリゼーションだと私は考える。グローバリゼーションとはWikipediaによると、「社会的あるいは経済的な関連が、旧来の国家や地域などの境界を越えて、地球規模に拡大してさまざまな変化を引き起こす現象」である。動機はどうあれ、自国以外にも生産拠点を世界に作って生産することは、ある種のシェアリングだと捉えることができる。

 

そんなグローバリゼーションが、現在コロナ禍や政情悪化などで崩れつつある。先に述べた通り、世の中が不安定になると、人は自分だけのものにしたくなるからである。要するに、囲い込みが始まっているのだ。

 

それと同時に、文化上の衝突や摩擦など、グローバリゼーションが持つ課題も噴き出している。

 

現在の諸問題の多くが、一度グローバリゼーションという仕組みを用いてシェアしたからこそ、現状のようになっているのが辛いところである。

 

これに対して、私たちはどうしたらよいか?

 

一つの方法として、一度問題を事実のみで確認できるまでにバラバラにしてから、解決する糸口を探すことが挙げられる。膨大な手間がかかるかもしれないが、一つ一つを小さくすることで、解決できることもあるのではないかと私は思う。

ダイエット1週間経過

今日は、ダイエットを始めてから1週間が経過しました。

まずは、私の現在の体重を公開。

 

70.9kg

(ダイエット開始時:71.1kg)

 

ええ、これが私の現在の姿です。

ダイエット開始時から、マイナス200

食欲に負けてしまった日が2、3日 あったため、この有様。

ストレスを食欲に転嫁させるの、本当にやめよう。

どうやったら食欲へ転嫁させずにストレス解消できるか、今後の課題ですね。

 

ちなみに何度も言いますが、目標体重は55.0kgです。

 

マイナス15.9kgをどうクリアしていくか。

毎週日曜日はダイエットの報告会をしますので、どうぞよろしくお願いいたします。

側にあって、ホッとするもの

「あなたは、ラジオを聴きますか?」と人から尋ねられたら、私は「Yes」と迷いなく答えられる。ヘビーリスナーかとさらに尋ねられると、そこまでではないが、勉強する時や、本を読む時、また料理の時によくかける。

 

最近はアプリの「radiko」のお世話になっている。「radiko」はリアルタイムでないところが弱点だが、キレイなラジオらしい音を届けてくれるところが良い。よく耳を澄ませると、少しノイズが入っているのだ。古きラジオだと、電波が入るところを必死で探していたのを思い出す。私の家は古きラジオだと、電波の谷の位置だったらしく、FMは完全に入らない、AMは何とかという有様だったため、ラジオを楽しむようになったのは、「radiko」が出現してからだ。

 

ラジオが側にあると、ホッとする。

 

TV程存在を主張することないかと思えば、時にTV以上にDJさんやリスナーさんの発言に驚かされることもある。また四季を強く感じることも多い。

 

生放送で放送している番組が多くてDJさんとリスナーさんとの距離が近いから、リアルがそこにあるのだ。そこが、ラジオというメディアが持つ何よりの強みだと私は考える。

 

そうして、今、私は某FM局の番組の最終回を聴きながら、このブログを書いている。春は出会いと別れの季節だということを強く感じさせる。寂しくなるが、だからこそ私はそんなラジオが大好きなのだ。

満開の桜から考える

今日はTVで東京の満開の桜を見た。桜並木だったことも相俟って、TVで見た桜はとても綺麗だった。今日は夏日の日の地域もあった程、とても暖かい日だった。

 

そこから私は考える。ああ、こんなに早い時期に桜が満開になってしまった。温暖化がまた一つやってきたのだなと。

 

寒いよりも暖かい方が身体を動かしやすくて私は好きだけど、温暖化のことを考えると気が沈む。これ以上、夏場が暑くなるのは御免だ。

 

温暖化を防ぐために人間ができること。ゴミを出さないようにすることから始まるのだろう。しかし、戦争をしないことも温暖化を防ぐことになるということを、あなたはご存じだろうか?

 

戦争はミサイルや弾薬、火による破壊行為で二酸化炭素を多く排出する。ウクライナ侵攻では二酸化炭素排出量が八千万トンを超えるというから驚きだ。

 

この八千万トンは、戦争を人間が始めなければ排出されなかった二酸化炭素である。人が人である限り争い事はなくならないが、戦争は回避した方が人類のためにも地球のためにもやさしいと私は考える。

 

それならば、どう戦争を回避すれば良いか?少し考えていることがあるので、それがまとまったら述べたいの思う。

書くことについて考える

「書くこと」はどういうことか。

 

その意味は字を書くこと、文章を作ることが挙げられる。総じて、自らの思考を文字に起こす行為が「書くこと」だろう。

 

今でも手書きでものを書く人も多いが、ブログやSNSの出現で「書くこと」が手軽になった昨今、文字を通してネットには人々の思考で溢れている。

 

そんな「書くこと」が失われるかもしれないと感じる出来事があった。

 

2023年3月20日放送の『クレージージャーニー』で、人体改造の取材をしているケロッピー前田氏の旅をTV番組にしていた。そこで、イーロン・マスクが持つ会社の一つが脳にマイクロチップを埋め込み、思考がデジタル機器の操作に反映させる実験を動物で行い、成功したということが紹介されていた。人体での実験はまだだが、将来的には1秒間に100文字入力できるようになるであろうという技術だそうだ。

 

それを知って、私はその技術が確立されたら、「書く」ということは人間から失われるだろうなと思った。なぜなら、その技術は思考をそのままデジタル画面へ出力できるからだ。ひょっとしたら思考からデジタル画面への変換時に「書く」という動作の信号は残るかもしれないが、教育と技術革新次第ではその「書く」行為は滅ぶだろう。

 

今は手書きでもデジタルでも自らの思考を文字に起こす行為を「書く」と表現しているが、将来「書くこと」は真に手書き文字に限定される行為になるかもしれない。一方で、手書きで文字を書くことは、廃れるか、高尚な趣味の一環として振り分けられるか、そのどちらかになるであろう。

 

今は、手書きの文字もデジタル文字も、同じ「書く」で表現される最後の時代かもしれない。