成れ果て村における価値の考察~メイドインアピス~
※この考察は、『メイドインアビス』のネタバレを多く含みます。ネタバレが嫌な方はご注意ください。
『メイドインアビス』という2度アニメ化されている冒険漫画がある。
あらすじをざっくり説明すると、「アビス」という大穴の最深にあると言われている黄金郷を目指して、主人公一行が冒険をするというものである。
この漫画のポイントは作者がインタビューで「わくわくする自殺」というパワーワードを持ち出すほどの威力のあるお話であることであるが、今回の本題はそこではない。『メイドインアビス 烈日の黄金郷』の舞台となっている「成れ果て村」についてである。
『メイドインアビス』における「成れ果て」とは、アビスの呪い等で異形の姿になった者たちのことである。「成れ果て村」とは、深界六層の「還らずの都」の中にある彼らの村である。その「成れ果て村」は「価値」が基準として運営され、中でもヒトの子は最上の価値があるとされている。
今回は、「成れ果て村」の次の項目について、考察していきたい。
- なぜヒトの子が「成れ果て村」の価値の最上とされているのか。
- ファプタは、なぜ「成れ果て村」に入れなかったのか。
- なぜヒトの子が「成れ果て村」の価値の最上とされているのか。
なぜヒトの子が「成れ果て村」の価値の最上とされているのか。
自分たちの元ある姿だからだという意見も多くあるだろう。私もその面があることは否定できない。
しかし、別の側面もあるのではないかとも考えている。では、その別の側面とは何か。
それは、「成れ果て村」とは完全に自由だからである。
「成れ果て村」の成り立ちは思い切りネタバレになるが、150年前に「欲望の揺籃」を使用されたイルミューイの体内で育まれた村である。村人は村の加護を受け取れる代わりに、村から出られない。対して、ヒトの子は「成れ果て村」を自由に出入りできる。アビスの呪いにもかかっていない。
ナナチも同じ成れ果てながらも、マジカジャから「価値が高い」と言われている。それは人の原型を留めているからとか、ミーティの想いからいうこともあるだろうが、「成れ果て村」から自由だからということも考えられる。
言い換えると、村は自由を価値基準にして運営されていたと考えられる。
- ファプタは、なぜ「成れ果て村」に入れなかったのか。
この理由は二点あると私は考える。
第一は、精神的にはファプタは「成れ果て村」にがんじがらめになっているが、村から肉体的には自由な存在であるということだ。それはファプタは「成れ果て村」から離れて行動できるということからも推察できる。
第二は、「成れ果て村」である母・イルミューイを滅ぼす存在だからだ。イルミューイ自身はファプタに自らを滅ぼして欲しかっただろうが、生存本能が働いたのだろう。自らを生き長らえるため、ファプタを締め出したのだ。
そうして、ファプタは「成れ果て村」に入れなかったのだ。
応用として、ファプタが「決して滅びない価値の化身」理由もあるが、これは②で言及したファプタが持つ「成れ果て村」からの肉体の自由性と、イルミューイがいる限り持つ、無限の再生能力からだと思われる。
以上が、考察内容である。好き勝手な一人のファンの妄想として楽しんでいただけたら幸いである。
ダイエット初日
今日は、ダイエット初日。
いよいよ……という感じです。毎週日曜日は減量を考えることを行っていきたいと思います。
まずは、私の現在の体重を公開。
71.1kg
ええ、これが私の現在の姿です。
こんなに太ってしまった原因は飲んでいる薬の副作用もありますが、私の怠慢もまた大きいです。
大幅に太ったのは、私の人生においてこれで3回目。
うち2回は何とか元に戻しましたが、今回は達成に不安ということもあって公開ダイエットに踏み切りました。
尚、目標体重は55.0kgです。
マイナス16.1kgをどうクリアしていくか。
毎週日曜日はダイエットの報告会をしますので、どうぞよろしくお願いいたします。
これからのざっくりとしたブログスケジュール
こんばんは。kanakichitanです。
今日は「○○について考える」はお休みにして、
これからのざっくりとしたブログスケジュールについてお知らせします。
・月~金 「○○について考える」
・土 軽い雑記や好きなもの
・日 ダイエット
上記の通りに行いたいと思います。
現実的に土曜日が一番更新できなくて、
ブログをお休みする日もあるかもしれません。
その時はごめんなさい。
日曜日のダイエットは、文字通りです。
現状と一週間の結果報告を行う予定です。
このような感じですが、よろしくお願いいたします。
写真について考える
写真は、あなたにとってどういう意味を成しますか?
そう訊いてみたくて、今回のテーマを決めた。
私にとって写真を撮ることは、一瞬を切り取ることだ。
デジタルでも良いが、フィルムを私は好む。その理由は、加工できる要素が少なくて消去が効かないところが好きだからだ。また、気に入らない場面も残るところが憎らしくもあり、その思わぬところが良いアクセントになっていたりするところもフィルムならではである。
連写しても、一枚一枚が一瞬一瞬を切り取っていて、動くことはない。動かないからこそ、その一瞬が鮮明に輝く。
そんな写真が私は好きだ。しかし撮るのは好きだが、写るのは嫌いだ。
写ることは、自分の記録が未来永劫残ることになりそうなのが嫌なのだ。私は自分の生が終わる瞬間に、自分が残したこれまでの記録をすべて消したい。矛盾しているが、それが今の私の願望である。
旅行について考える
今日の私は、旅行について考える。
いつか「平和について考える」ということもブログに綴っていきたいなと考えているが、旅行は平和が必須条件の行為だと私は感じる。なぜなら、行き先が政情安定していないと、旅行という行為ができないからだ。
事実シリア内戦以前に旅行でシリアを訪れた友人は、「良いところだったのに……」と再び訪ねることのできない現状を嘆いている。
私は私で、沢木耕太郎『深夜特急』でアフガニスタンの旅が描かれているのを目の当たりにして、「当時はあの辺り政情が安定していたんだ……」と遠い目をして羨んだものだ。
コロナ禍が「コロナとの共生」になってきて、旅行が徐々に行きやすくなってきたが、政情が不安定で旅行に行けない国が増えたように思えるのは私だけだろうか。「世界平和」がどれだけ遠い存在か昨今の情勢から思い知らされるが、少しでも旅行で訪れることができる国が多くなることを私は祈るばかりである。
記録することについて考える
世界最古の記録とは、インドネシア・カリマンタン島の4万年前の水牛の壁画だそうだ。遥か昔に人々が絵を用いて「記録すること」を行っていたことに、私は驚く。そこから文字になるには、紀元前8000年頃のシュメール人まで時を待つ必要があるが、それでも「記録すること」は古くから行われてきた。
「記録すること」によって、人間の脳への負担が軽減されてきたが、それと同時に「記録すること」の手段が人間の欲求にもなってきたと私は考える。
その手段というものはどのようなものがあるか。絵を描くこと・文字を書くこと・写真を撮ること・動画を撮ることなどがある。それらの元は「記録すること」から始まり、後に「表現」として人間の欲求を表すものとして使用されることになったのだ。
私のこのようなブログを書くという行為も、一種の「記録すること」である。私もまた「記録すること」で、「表現」という自らの欲求を今日も満たしている。
仕事でのカタカナ英語について考える
仕事には、カタカナ英語が氾濫している。
専門用語ならば、仕方がないと思いつつ、そのまま受け入れる。
しかし、「エビデンス」とか「フィックス」など、日本語でも別に良いのでは?と思うものについては、話が別。
「エビデンス?『根拠』でいいでしょ」
「フィックス?『決める』とか『決定』でいいじゃん」
と、仕事の最中、私は心の中で密かに毒をついている。
そうして、思いを馳せる。
最初にそれらの言葉を日本のカタカナ英語として導入した人々は、どんな気持ちで言葉を使ったのだろうかと。
単純に格好良いから?
周囲が使っているから?
それとも、日本語には適当な訳がなかったから?
私の妄想は止まらなくなるが、日本語でも訳せるものをカタカナ語そのままで使う理由って何だろうと考えた場合、上記の他に「カタカナ英語で、相手が受け取るイメージを印象的なものにしたい」ことも挙げられると思う。
例えば、「納期を決定する」と「納期をフィックスする」を比較してみよう。どちらも同じ意味だが、「納期をフィックスする」は、「納期を決定する」の「決定する」よりも「フィックスする」に一段高いところに意味のアクセントが入っている印象を受ける。初見だと、意味が分からないから印象深いこともあり、尚更そのように感じるだろう。
こうして眺めていると、カタカナ英語を使って仕事をしたくなってくるかもしれない。しかし、カタカナ英語の使用は最小限に留めていただきたいのが私の本音である。これ以上は、不要なカタカナ英語を増やされると、その意味を覚えるのにわざわざ脳のリソースを割かなければならないのは面倒なのだ。それに、カタカナ英語の氾濫は単純に仕事がやり辛い。
仕事において何でも日本語でとも言わないが、最近カタカナ英語が増えすぎていないかとも考える今日である。